書類を片手で抱え、執務室を訪れてみれば、仕事途中の上官はその時分には珍しく上機嫌でこんな話を持ち出した。 「聖ニコラスの話を知っているかい?」 何を言い出すかと思えば。彼が上機嫌な様子で切り出す時点で、仕事と無関係な話であると気付くべきだったか。知る知らぬの問題ではない。ここで答えてれば、仕事脱線の列車は発車したも同然だ。 「先ほど届いたものです。明日中にとのことですので、早急に目を通していただければ」 上官の問いを無視して抱えていた書類を差し出す。今は彼の世間話に付き合っている暇などない。 代わりにサイン済みの書類を抱え、私はこれで失礼します、そう彼女が言いかけた時。 「少しはゴシップに付き合いたまえよ」 溜息交じりで上官が言う。 「…大佐の場合、"少しは"という次元ではないと思うのですが」 上官に背を向けながら、リザはぴたりと足を止めた。纏められた髪は全く取っていいほど乱れていない。 「市民の文化に親しむのも必要なことだよ、中尉」 * 今から1000年以上も昔、不思議な能力を持つ聖職者がいた。彼の能力は、錬金術に通じるものではないかという学者さえいるという。その名はニコラウス――アメストリス風に言えば、ニコラス。後に聖人の称号を与えられ、街の子どもたちの憧憬の的の由来となる人物である。 「飢えに苦しみ、助けを求めた子どもたちを殺し、オイル漬けにした肉屋にそれを白状させ、その子どもたちを生き返らせたと逸話がある。また、彼は無理矢理結婚させられそうになっていた若い女性を助けたという話もある。素晴らしいと思わないかい?」 何時にも増して饒舌に話すロイにリザは、「はぁ…」と生返事を返すことしか出来なかった。それを真実だと信じているようではなさそうだが、調子に乗せられては本当に逸脱の列車に乗ってしまう。仮にばっさりと切ったとしても、あれこれと言い訳をつけて上手く丸め込まれそうだ。彼が言えば、説得力があるように聞こえるのだから不思議な話だ。 「――それでプレゼントに何か欲しいものは?リザ」 ひとりで何かを考えているうちにいつの間にそこまで話が進んだのだろうか。上官は肩肘を付き、手に顎を乗せてこちらを見ている。 「…勤務中にそれはやめて下さいとお願いした筈ですが」 最後のひとことを窘めつつ、リザは溜息を落とした。…結局、こうなるのだろうか。 彼の好意自体が不快だということでは決してない。しかしながら、それを勤務中に持ち込まれては困るのだ。近しい部下たちに知られているのはまだしも、他の上官に知られるのは不味い。 「時計を見てみたまえ。正午を過ぎている…これでも聞いてはいけないかね?」 12時からの1時間は昼食を含む、休憩時間だ。大総統令でそれは定められている。いつの間にそんな時間になったのか。自分としたことが不覚だった。 「……確かに。しかし、お訊きになる相手をお間違えではありませんか?そのような風習ならば、街の女性にお訊きになったほうが宜しいのでは」 彼とそのような関係の人間は街にごまんといる。それを彼女は知っていたし、彼がどのような人間関係を築こうとも仕事に差し支えなければ、口出ししようとは思わなかった。それを自分の心がどのように受け止めようとも、どのような感情を抱こうとも、見て見ぬふりをしてきた。彼に対する自分の感情など必要ないことだ。むしろ、彼女たちと関係を持ち…有力な情報を得たことがあるということをリザは知っている。 だからその指摘は彼女の私情を除けば正論だった。友人以上、部下以上――しかしながら、それ以上である必要はない。彼の師匠の娘…彼と自分を結びつける者はそれだけで十分だった。 「今は君に聞いている。――何がいい?」 これ以上何か言っても、執拗に訊ねられそうな気がしてならないのは思いすごしだろうか。そんなことを考えるだけでも遠慮願いたい。リザは大げさに盛大な溜息をつくと、言葉を紡ぎはじめる。 「敢えて言わせて頂くならば――上官が毎日、勤務時間中に仕事を終わらせて頂けることが一番…――」 その言葉は最後まで聞こえることはなかった。リザの言葉と同時に彼が席を立ったが、まさか自分の唇を塞ぐなど予想外だったのだ。あまりの予想外さに、手にしていた書類が音を立てて、床にちらばった。しかし、ロイはそれを一瞥さえしなかった。何事もなかったように無視して、彼女の背中に腕を回す。 「なにを――」 解放されるとリザはそれを窘めようとする。しかし、それは先ほどと同じ理由で叶わない。それがいくから繰り返された後には、リザは酸欠で息が荒くなっている。 「た、たい……さ……」 「君がちゃんと答えてくれるまで、続けるぞ?――どうして欲しい?」 いくらか選択肢はある。だが彼はひとつの選択肢しか選ばせてくれないだろう。リザはそう、心の底で思った。 END *POSTSCRIPT* アメストリスは、国教ってのが無いような印象を受けます。或いは複数とか。 なので、こういう逸話のひとつくらいあっても良いかなぁ、と(笑) クリスマスの話の捏造ですが、どこまで本当だったかと一瞬分からなくなってしまったよ(え) 2007.12 / 2010.06 |