視察という文字とともに直帰と書かれていたことに誰も何も言わなかったのは、それが上官の定石だからか。それとも気付かなかっただけか。いずれにしろ、それに副官の名前が書かれていることは盲点であったと言える。そして当然のことながら、それは彼女が記したものではない。 街の視察に出るからと、付き添いを頼まれたのは副官であるリザだった。ハボックやブレダが付き添うことも多いが他の仕事との兼ね合い上、今日はリザと言うことになった。…最もそれは表向きの理由であって、真のそれには別の事情が関わっているのだが。 視察と言っても、特に任務という任務があるわけではなかった。中央は国内で最も治安が安定しているし、大総統府など主要機関が多々あるため普段から警備は多いが、地方視察と比べれば半ば遊びのようなものだった。日常的なものであるので、市街を歩いて回る程度のものだ。 リザが時計を見れば、中途半端な時間だった。勤務時間内ではあるものの、今から司令部に戻ればそれは終わってしまうし、かといって直帰するのも気が引ける。斜め前の上官に指示を仰ごうかとも思ったが、後者を選択することは分かり切っていたので訊きかねていた。しかし今日の仕事は珍しく終わっているし、残業する必要も無いかと考えていると。 不意にロイの足が止まった。後ろを歩くリザも足を止めた。彼の視線を追って、目線を上げ―――暫し思考が停止した。 考え事をしているうちに中道に入っていたようだ。リザとしたことが迂闊だった。 ――――先手を取られた。 そう思った。どうせ女性と待ち合わせでもしているのだろう。まぁいい。今日のところは少し多めに見よう。戻って時間があるわけでもなく、仕事が滞っているわけでもないのだから。ここで邪魔者は消えて、自分はどうしようか…と思っていると。 「何をしている。早く来たまえ」 少し先にある扉を開けて、リザを待っている…ようだ。 「いえ、私はここで。今日はお疲れさ――」 そこで言葉は途切れる。腕を無理矢理引かれて、リザはその建物の中へ入った。 「…………。」 建物に入った瞬間、リザは呆気にとられた。…自身が想像していたものと、余りにも違い過ぎるからだ。 「なんだ、随分と久しぶりじゃねぇか」 ロイに腕を引かれながら足を進めると、随分と親しげに声を掛けられた。勿論、リザにではなくロイへ、だ。 「そうだったかな」 笑いの混じった声で彼は答えた。それが挨拶代わりなのか、それとも彼の知り合いの言うことが本当なのかリザには分かりかねた。今の彼女は、何が何のことか状況が理解できていないということもあるのかもしれない。 「今日はどうした?」 「客にそれは無いだろう。演奏に耳を傾けに来ただけだ。触るつもりはない」 友人が何を期待しているかすぐに分かったので、ロイはそう答えた。 全く、顔によく出る奴だと彼は思う。 「てっきりそのつもりで来たのだと思ったんだがな。まぁいい。ゆっくり聞いてきな」 今日の分は負けておいてやるよ、と一度は受け取った金をロイの手に返し、ひらひらと手を振って彼は去っていった。まだ開演時間まで少しある。準備等が残っているのだろう。 「大佐?」 別室に消えた知り合いを見送ったロイに、リザは戸惑いながらも声を掛けた。 …これは自分を誘っていると解釈していいのだろうか。 やっと思考がそこまで辿り着いた。些か違和感は否めないのだが。 「ちょっとした腐れ縁だ。……行こうか」 そう言ってまたリザの腕を引っ張っていく。思えば知人と交わしているときも手はずっとそのままだった。 それを意識すると何だか急に顔が熱くなってきた。それを嘘だと、気のせいだと思い込ませるように、ロイに話を振る。 「あの……今から何に?」 余りに状況が呑み込めていないと分かるそれにロイは苦笑したくなった。何て抽象的な問いなのだろう。 「すぐに分かる」 ただそれだけ答えて、ロイは扉を開けた……。 * 開演時間まで暫く時間があるのか、それともこれが普通なのかリザには分からなかったが、小ホール程の規模のそこは、大して人が集まっているというわけではなかった。 室内は足もとが見える程度に薄暗くなっている。入口の正面がステージで管楽器などが置かれている。左中央には指揮台があって、その近辺だけ別のライトで照らされていた。 「オラトリオは知っているかい?」 鑑賞するには好位置の列に座れば、ロイはそんなことを訊ねてきた。 確か、自国語で聖譚曲と言うがそれ以外はよく知らない。リザがそのように話せば、宗教的内容の音楽作品だとそれについて掻い摘んで説明してくれた。 そういえば、昔少し齧っていたことがあると言っていたか…そんなことを思い出す。少なくとも自分よりは多趣味な彼だが、長年付き合ってつい最近それを知り、驚いたものだ。 「詳しいのですね」 考えることも無しに、そんな言葉が出てきた。これが他の女性にいつも聞かせているのだと思うと嫉妬心に似たものが湧いてくる。それは独占欲というのだろうか。 「……嫌いか?」 リザのそれが不快感と思ったのか、ロイはそう言ってリザの顔を覗き込んだ。 「い、いえ…そういう訳では」 慌ててかぶりを振る。ただ嫉妬しただけなのだ。いつも今の自分の位置にいる女性に。彼の趣味へさえも。 そんな惨めな感情など彼に言える筈がない。 「この前、夜想曲を聞いていただろう?」 それは先日彼が訪ねて来たときのことだ。リザの父が大切にしていた数少ない機器と円盤を引き取り、聞いていたのが夜想曲だった。その楽曲と作曲者くらいは知っているが、その世界に精通していると言うわけではなく、ただその理由から聞いているだけの話だった。リザにとってその楽曲がそれ以上の意味を持っていることは認めるが。 「音楽は嫌いじゃないと思ったんだ」 それを言ったロイは少しだけ悲しそうだった。悲しい…というと大袈裟かもしれないが、残念そうな様子だった。リザはこれが漸く、他の誰でも無い自分のために彼が誘ってくれたということに気づく。 「嫌いではありません。寧ろ好きな類に入るかもしれませんね」 苦笑が交じる。それは好きだと正直に言えないためか、それとも気恥ずかしいのか。 「ただ、あなたのように詳しくはありません。曲名や形式も知らない物も多いですし」 それだけです、とリザは言葉を結んだ。 これで少しは、彼の誤解を解くことが出来ただろうか。 だが今のリザにはそれが精一杯で、同じものを共有している喜びとそれを更に広げられたら良いなどと伝えられはしなかった……。 END *POSTSCRIPT* タイトルはEndless4よりお借りしました。 お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、24.の続きのようなものです。 因みに一人目はヒューズさんとか言ってみます。 2008.08 / 2010.06 |